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中国・桂林2泊3日の旅

2004年9月7日(火曜)
台風18号に阻まれて

7日の朝、台風18号の様子が気になっていた。テレビの気象情報では「九州全域が暴風域に入り北部に上陸の恐れ 」とある。しかし、朝の天気もそう悪くないし、関空午後3時前の出発に影響はないだろうと高をくくって車で関空に向かった。いつものことだが、自家用車を関空近くの駐車場(空港で受け渡し)に4日間預けても6千円だから、高速道路代を加算しても電車で往復するより安い。しかも荷物の持ち運びが楽だ。また愛犬を所定の場所に預けたその足で空港に向かうことができるから便利でもある。
集合は、国際線出発ロビーに出発2時間前の12時50分。自宅を10時過ぎに出たので名神・近畿道は込み合うこともなく、ゆとりの走行だった。だから、堺市あたりを走行中、岸和田のサービスエリアでお茶でも・・・と話し合っていたところに携帯電話がなった。「ん?こんな時に誰から?」と、ちょっとドキッとしながら電話を耳にあてると・・・女性の声で「こちら本日お車をお預かりする駐車場のものですが、中国南方航空にお乗りですね。実は、ただいま台風18号により欠航となりました。いかがされますでしょうか」とのこと。ええッ〜?!とびっくりが先にたち、「いかがされますか」と聞かれても、なんとも返答のしようがない。あとで返事するからといったん電話を切り、急いで申し込みをした旅行社に問い合わせの電話を入れてみた。しかし、欠航の報がまだ伝わっていないらしく、確認をしてから電話を入れるという返事。その間も車は関空に向けて走り続けている状態で、引き返すには次の出口で降りなければならない。とりあえず岸和田のサービスエリアに入ることにした。

ほどなくサービスエリアに到着。おりしもお昼前なので、レストランで昼定食を注文して、旅行社からの返事を待つことにした。「それほど風も強くないのになあ。どうして?」などと不服めいた言葉を口にしながら食事をしていたら携帯電話が鳴った。「お客様の情報を確認いたしましたら、たしかに欠航するようです。そこで大変急なことですが、明日同じ時間の出発で、桂林2泊を1泊にして行うことになったのですが、いかがでしょうか」ときた。即決を迫られて狼狽したが、1日短縮されたコースを尋ねると、桂林の漓江くだりと観光が中心で広州観光だけがなくなるとのこと。そして、今夜は関空手前のリンクウタウンにホテルも用意してくれるという。夫と相談するため、いったん電話を切って話し合った結果、せっかく予定を繰り合わせてここまで来たのだから、とぼとぼ引き返すより短縮旅程でも参加してみようということになった。

昼食後、添乗員の待つ関空に行き、受付を済ませて用意されたリンクウタウンのホテルに入った。午後2時頃だっただろうか。行きの関空連絡橋ではあまり風速を感じなかったに、ホテルに入るために通ったときは、車の速度を落とさないと危険を感じるほどの風の強さになっていた。さらにそれから30〜40分後、ホテルの9階の部屋に入り、窓の外を眺めて驚いた。先ほど通ってきた連絡橋が波しぶきでその姿を隠し、交通規制されたのか、車の影もなかったのだ。お〜、私たちは危機一髪だったのか!と、さらに階下を見ると、JRリンクウタウン駅に通じる陸橋を歩く人々が、風に吹き飛ばされそうになって、防護柵につかまって動けなくなっていたのだ。中には、無理に歩こうとして後ろに滑っていく人や、バックの中身が全部吹き飛ばされて空に舞ってしまった女性などもいた。台風のそんな光景は滅多に見られるものではない。人の不幸を手も差し伸べずじっと眺めていることに、ちょっとした後ろめたさを感じながらも「あ〜!飛ばされる〜」「そこにじっとしてないと駄目でしょう!」「あ、その階段上がったら危ないよ〜!」などと、聞こえもしない声を張り上げながら日が落ちるまで眺め続けた。そして、その台風18号が日本全国に、しかも北海道にまで上陸して多大な被害をもたらしたことを、帰国後はじめて知ったのだった。     

               
 
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2004年9月8日(水曜)
ネオン輝く桂林

りんくうタウンでの朝の目覚めはよかった。出発日が一日順延になったのなら、いったん家に帰ってあらためて出発という手もあったが、家に帰ると、あれこれ用事が目につく。だから、休養日としてホテルでゆっくりしようと決め込んだのだ。そして、しっかり眠ったあとの爽快さは、カーテンを開けて、そこに写った景色で倍加した。昨日の雨風はどこにいったのやら。真っ青な空と海が横たわっていた。

   

ツアー参加者は、中高年ばかり22名。その約半数が出雲からの仲間うちで、あとは岡山、滋賀、京都からばらばら参加だった。出発は午後の2時50分。ホテルのチェックアウトを10時にしたら、時間をもてあまし気味だった。もっとも私は出発ロビーに設置されたパソコンでネットサーフィンをして過ごしたりした。が、手荷物検査を済ませあと、再びパソコンのもとに行き、自分のサイトのBBSに書き込みをして、入国審査を受けるため北出発口に行った。すると、うねうねと凄い人の列が続いているではないか。驚いた。時間をみると、出発時刻まで20分もない。一緒に旅する人たちの姿を探しても、すでにゲートに出てしまったのか、姿が見当たらない。私は慌てた。このまま入国審査の順番を待っていたら、間違いなく間に合わないだろう。そこで歳の功の発揮といおうか、とにかくおばさんは強いのである。順番待ちをする列の両側にひかれた綱をするりするりとくぐるり抜けて先頭にたどり着き、「すみません。ちょっと出発時間に間に合いそうにないので、先に入れていただけないでしょうか」と頼みこんだ。先頭で入国審査を待っていたのは、人のよさそうな中年の女性だったが、「それは大変。どうぞどうぞ」と入れてくれた。私は何度も頭を下げ、入国審査を済ませると、シャトル乗り場に向かって走った。

やがて中国南方航空390便は、定刻10分遅れで広州に向けて飛び立った。飛行時間は3時間40分。私には初めての中国。広州の白雲空港に着いた頃には、夕闇がせまりかけていた。今年8月5日に開港したという空港は、馬鹿がつくほど大きくてきれいだった。大きいといえば、国際線から国内線に乗り換えるのに、3,7キロも歩かなければならないという。3日間私たちのガイドをしてくれる中国人の、背の高い高さん(名前を忘れないために、そう覚えてくれと、本人の弁)の後について、宿泊地である桂林までの国内線に搭乗するため、かなりの距離を歩いた。もっとも長い長い動く歩道が完備されており、あまり疲れを感じることはなかったが、それがなければ、皆へばっていたかもしれない。

広州から桂林までの飛行時間は45分ぐらいだったが、空港に降り立って驚いた。空港の外は、色とりどりのネオンが輝いていたのだ。それまで私の中国のイメージは茶色と赤が基調だったのが、一瞬にして覆されてしまった。桂林空港からバスでホテルに向かうまでのほぼ1時間は、車窓に顔をくっつけるかの姿勢で見入ってしまった。どこまでいっても街はネオンとライトアップの波。しかも夜9時ごろだというのに、なんと人出の多いことか。店の前に座りこんだり立ち止まったりで話す人、集団のようになって歩く人・・・。ガイドさんによれば、この状態が夜中まで続くという。それは、中国では共働きが多いため家庭で食事をする機会が少なく、仕事が終われば家族や仲間と食事に出かけて、そのまま街にくりだすためとか。中国に一歩入ったとたん、そんな文化の違いに大いなる興味を抱かされることとなった。

さて、ホテルに着いたのはすでに9時をまわっていたように思う。部屋に入る前に、中国でのはじめての夕食。テーブルにいわゆる中華料理が並べられたが、どうも味が薄くて期待していたほどのことはなかった。疲れていて舌の状態が良好でなかったのか、格安ツアーの宿命なのか。日本から中国に移動しただけの一日は、翌日の墨絵の世界観光に大きな期待をかけながら終わった。



2004年9月9日(木曜)
いよいよ山水・墨絵の世界へ

明けてびっくり桂林の朝
いよいよ漓江くだりで、山水墨絵の世界が見られる日。モーニングコールは6時だったが、5時過ぎに目が覚めた。カーテンを開けると、まだ夜が明けきっていなかった。が、うっすらとガラス越しに見える風景に驚いた。夕べは夜遅くの到着だったので、外の景色は真っ暗な中のネオン街だけで想像すらできなかったが、そこに現れたのはホテルの前を流れる川と橋、そして町並み、さらにはるか遠くに凸凹の山々。すでに中国の墨絵の世界が広がっていたのだ。「わ〜!こんな景色だったのか〜!」と思わず口をついた声が大きかったのか、ぐっすり眠っていたはずの夫が目を覚ました。「ほら!見てみて」とはしゃぎながら、私はカメラを取り出してシャッターを押し続けた。

元気な中国人
やがて道路沿いや橋に橙色の朝の灯がともり、夜のネオン街とは違った風情となり、その中を自転車に乗った人や歩行者が行き交いはじめた。それを眺めていた夫が、「中国の人って元気だわ。自転車のスピードが違う」という。写真撮る手を休めて下方をみると、なるほど。背中を少し前のめりにして、一生懸命ペダルを踏んでいるせいか、速い、速い。まだ夜も明けきらないのに、仕事に遅れるのか、自転車健康法なのか・・・。そういえば昨夜、広州から桂林までの飛行機で、国内観光中の中国人の20代と思われる女性6〜7人と一緒になった。彼女たちは席に座るや否や、大声でおしゃべりを始めた。しゃべっては笑い、笑っては我先にとしゃべり、それが到着まで絶え間なく続いたのである。あまりにも声のトーンが高くて耳障りなので、私の周囲の日本人は顔を見合わせて苦笑したり、耳を塞ぐ人もあったほど。中国女性は強いという言葉を耳にしたことがあるが、その実態がこれなら、まさに中国人は元気で強し、かつ恐るべしというべきか。いや、礼儀や配慮に欠ける発展途上国の人間の様、という声も聞こえてきたので、それはその人の判断しだいということにしておこう。しかし、人々がバイタリティーにあふれていることは間違いなさそうだ。

そうこうしているうちに、東の空が赤く染まり始め、橙色の灯火が消えて、しっかり街の様子が見えてきた。と、川(これが漓江だと、あとで知った)の中にぽつんぽつんと黒い影が見える。どうも人が泳いでいるようだ。あとでガイドさんに聞くと、中国人が健康法として川で泳ぐのは大抵は午後から夜にかけてだが、桂林だけは朝に泳ぐ習慣になっているという。一つの中国でも広い国だから、所変われば品変わる.、ということなのだろう。

交通ルールなく、要る”勇気”
中華バイキングの朝食を済ませ、7時半に観光バスに乗車。漓江くだりの遊覧船への乗船は9時半なので、そのかんバスの中から市内を観光し、途中、像が鼻を川(漓江)の水につけている形の像鼻山に短時間立ち寄った。ここは市民が集う公園でもあり、入り口を一歩入ると、気功や太極拳や武術に余念のない集団(年金生活者たちだという)があちこちで見られた。山の頂上には明の時代に建てられた宝塔があって、普賢菩薩の線刻が施されているということだったが、ただ像の鼻の形をした山を外から見たに過ぎない。というように、今回のツアーは出発前のアクシデントにより時間的余裕がないため、市内観光は漓江くだりを終えたあとに巨大な鍾乳洞見物があった他は、ほとんどが車窓見物となった。その窓から目にした光景で、どうしても記しておきたいことがある。

それは、観光バスに乗ってまもなくのこと。朝7時半にはすでに出勤ラッシュが始まっていて、街中は自転車通勤する人で溢れていた。中にはバイク通勤者もあり、二人乗りも多かった。ところが、桂林市内の道路は結構広いけれども、道路にセンターラインがあるわけでもなく、決められた自転車道があるわけでもない。なにより驚いたのは、交差点に信号がないのだ。バスの運転席が左側なので、おのずと左側通行になっているようだが、人々は縦横無尽に動いており、私たちの観光バスは、その間をぬって走り抜ける格好になる。だから、バスがちょっとでも速度を落とせば、自転車がびゅんびゅん追い抜いていくし、バスの前を事もなげに横切っていくのだ。こういう光景に慣れていない私たちはその様子に、「わ〜!危ない〜!」「わ〜!怖い〜」と、何度奇声を上げたことだろう。するとガイドさんいわく「ここには交通ルールなどというものは全くありません。通行に一番必要なものは”勇気”です」といってのけた。その言葉が妙にしっくり気持ちにおさまったのは、私だけだっただろうか。

いよいよ漓江くだり
さて、地球の何億年もの年月がつくり上げた自然の宝物、漓江と、それを取り囲む岩峰観光は、4時間あまりの遊覧船の旅となった。この旅を唐代の詩人・韓愈(かんゆ/768-824)は「山は碧玉のかんざし(簪)のごとく、水は青羅の帯をつくり」と表現したそうだが、それは1000余年の時空を超えて、そのままの姿で在るのではないかと思わせるほどの姿を呈していた。遊覧船の甲板に立つと、目に飛び込んでくる奇岩、奇峰は同じように尖っていても各々の個性を持ち、遠くに霞む山々は幽玄の世界を彷彿させるに十分だった。そして、満々と水をたたえた漓江はやさしい曲線を描きながら流れ、こよなく癒しを与えてくれた。欲をいえば、天気が良すぎたこと。もしこれが曇天、もしくは少雨模様であったなら、遠近ともさらに墨絵の世界になり得たのかもしれない。ここは私の駄文より、写真が物語ってくれるだろう。

ところで、甲板にたち続けてシャッターをきっていると、自然の風景7分、あとの3分は漓江沿いの集落と、その営みに視線がいった。川岸に置かれた生活用具、筏、舟、放し飼いされいるアヒル、鵜、水牛、そして働く人の姿など。それらはまるで現代文明に見放されたかのごとく素朴に映った。できるならここで降りて、生活ぶりを見たいという衝動にかられるほどだった。それから、時々コツン、コツンと遊覧船に何かがぶつかる音がした。何だろうと思って船の側面を覗くと、細長い筏を船にくっつけ、2人の若者が片手に小さな民芸品らしきものをかざして叫んでいた。ガイドさんの説明によると、観光客を相手にする売り子たちだという。彼らは漓江沿いの住人で、少数民族の青年たちらしい。しばらく眺めていたが、どうも売れている様子はない。そこに、彼らにとって何の役にも立たない勝手な心配をする自分がいた。

このころになると、ツアー客たちはお互いに親しくなり、口をきくようになっていた。炎天下の甲板に立ってシャッターをきり続けていたせいか、多少喉の渇きを覚えて船内に入ると、突然私の向かいに座っていた滋賀県から参加のご夫婦の夫さんが叫んだ。「ああっ!パンダだ。ほれ!あそこ、あそこ!」。私は驚いて、「えっ!どこ、どこ!?」と思わずテーブルに置いていたカメラを引き寄せた。すると、周囲にいた人たちからどっと笑いが起こり、「やっぱり引っかかったあ〜」という声。そこで、まんまと騙されたことに気づいて、私も大声で笑いこけた。ほかにも数人が騙されたらしい。パンダはかつて大昔はこのあたりにも生息していたらしいが、今は絶滅危惧種に指定されるほどに数が減っているので、よく考えればありえない話なのだ。でも、このことで一気に参加者の距離感が縮まったのはいうまでもない。こうして漓江の船旅は、「このまま遊覧船で引き返したい」気持ちを残しながら、陽朔(ようさく)到着で幕を閉じた。

「1000円、千円!」の土産屋さん
帰りは、迎えの観光バスで桂林に引き返したのだが、漓江の船着場からバスの駐車場に行くまでの間には、土産店がずらっと軒を並べていた。そこをツアーの一行が歩き始めると、「1000円。これ1000円」「奥さん、1000円、1000円、3枚で1000円」などと、1000円コールがわき起こった。なかには執拗に付きまとい、品物を押し付けるものもいた。気の弱い人なら、思わず受け取ってしまいそうなほどである。しかし私たちは漓江くだりの前にガイドさんから、「執拗に買ってくれとせがまれたら、ちょっと怖い表情で不要(ぶよう)!と断ってください」との注意を受けていたので、私は「ぶよう、ぶよう!」を強く繰り返しながら歩いた。たしかに多少睨みつけるような表情で言うと、傍を離れていくのがわかった。それにしても多くの観光客の中で、日本人を見分けて日本語で売りつけてくるのだが、あの1000円の商品を別の外国人にはいくらで売りつけているのか、本当の値段はいったいいくらなのか、今もって興味のあるところだ。

このようなお土産の販売光景は、桂林市内の土産物店でもホテルや空港のそこでも、さほど変わることはなかった。ちょっと商品を見ていると、さっと近寄ってきて、とにかく付きまとうのである。そして、たとえばネックレスを勧める場合、ちゃんとした日本語で「普通は一本1万円ですが、お客さんには3本で1万円にします」などと言うのだ。最初、10個1000円だと言ったものが、話の仕方によっては15個1000円になったりする。中には、水墨画の掛け軸を、自分の言い値にしないと買わないと粘って、10分の1で買った人もいてびっくりした。また、疲れたせいか、甘いものがほしくなって饅頭をみていたら、近寄ってきた女性店員が、一箱6個入りが2000円だという。それは高すぎるといったら、中国元で支払うなら日本円の2000円でないと駄目だけれど、日本円で買ってくれるなら1000円にしておくとのこと。中国で円の価値がどれほどのものか私にはわからなかったが、このことによって、円に相当な価値があることだけは理解できたような気がした。

そして帰国
書き残しておきたいことはまだまだあるけれど・・・一気に着地しよう。とにかく漓江くだりのあとはバスで桂林市内に戻り、鍾乳洞見物をしたあとに広東料理の夕食をとり、桂林空港から広州に飛んで、夜中の12時に五つ星といわれるホワイトスワンホテルに到着。長い一日が終わった。スワンホテルは広州5大ホテルの一つだが、1995年には中国観光局から「中国一のホテル」として表彰されているほど。けれども、そこに滞在したのはわずか7時間半。しかも広州の姿も空港へ向かう車窓から垣間見ただけで、翌朝10日の午前10時半、1時間遅れの出発となった中国南方航空が、私たちを日本に運び戻してくれたのだった。台風18号に阻まれて超短縮旅程になった、私には初めての中国旅行だったが、自然と人間の悠久の歴史ある中国に、また行ってみたい気持ちを起こさせてくれる旅となった。「皆様にご覧いただいたのは、発展途上国中国の、これが今の生の姿です。中国と日本の間には暗く悲しい時期もありましたが、それは長い国交の歴史からみればわずかの期間。今後はさらにすばらしい交流が生まれますよう、私は民間レベルでの力を注ぎたいと思います」という趣旨の、ガイド高さんの最後の言葉が耳の奥にこびりついている。

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